梶井基次郎・著「檸檬」〜📔あー夏休みぃ☀️青春の忘れもの🍋

📖〜長いあいだ、胸に引っかかっていた描写の正体が、ネット検索という文明の利器で、今解き明かされようとしている。オレは、当時のたしか中学生の副読本の授業で紹介された胸に迫る描写が忘れられなかった。手がかりは、記憶の中の途切れ途切れのこの描写、👉「いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンイエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈たけの詰まった紡錘形の恰好(かっこう)も。〜」

🏫当時の国語の先生は、消化授業の一部だったのか、あまりにも無機質に生徒に読ませただけで、あっさりと片付けていたような気がする。👦オレは、なんか素晴らしい歴史の瞬間に立ち会った気がして、この描写の胸に迫る迫力に落ち着かなくなっていたのを思い出す。👉・・・「あんな色彩やあんなヴォリウムに凝こり固まったというふうに果物は並んでいる。青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆うず高く積まれている。――実際あそこの人参葉(にんじんば)の美しさなどは素晴らしかった。それから水に漬けてある豆だとか慈姑(くわい)だとか。🌙またそこの家の美しいのは夜だった。」✌️

著者は、宮沢賢治??その線で調べてみたが、どうも違う。😝あの授業の最後に「舞台は、実在した果物屋さん」だとか、先生が言ったような気がする。〜「丸善 京都本店」は、初代となる店舗が1907年に京都・三条通麩屋町で開店。近代文学の名作「檸檬」において主人公が立ち寄り、積み重ねた本の上にレモンを置いて何食わぬ顔で去るというラストシーンの舞台として有名です。〜〜〜そうや、そうや、これやぁ‼️👉・・・「その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗(うるしぬり)の板だったように思える。」

🍀また今、読み返してみると、こんなにも情景の浮かぶ作家だったのだと、何十年ぶりに読んで思う。差し色と言うのか、暗い色彩の中のレモンイエロー、闇夜に光る月。そして何よりも私がソソるのは体感的な3次元描写‼️・・・私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅かいでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。👓・・・その頃私は肺尖(はいせん)を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼だれかれに私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故せいだったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。★☆★📖梶井基次郎・著「檸檬」だったのです。せいしゅん(青春の)忘れものが、一つ見つかったような氣がしました👍

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