📶微弱メッセージさえも、”気配(けはい)”として伝わる

 ✋障害者で重症者の方々は、言葉がわからず顔の表情も乏しいが、そこの職員たちは彼らのカラダから発する様々な「身体サイン」を手掛かりにして、ひとりひとりの心を読み取ろうとする努力を重ねているという。頭が下がる思いだ🙇その障害者の方々が🎍正月が近づくと落ち着かない様子になり、親や縁者が迎えにきてくれると喜んでいるというのが、足の緊張が緩むことで職員にはよくわかると言っていた。・・・”人間のカラダのどんな部分も、表現者で有りうる”のだと話された。

 障害者に限らず、こうした非定形型の意図せざるメッセージ💌は、健常者も普段から非可視型のコミュニケーションとしてやり取りしていることに果たして気づくであろうか?日本語で「気配(けはい)」と呼ぶようなものがそれに当てはまる。

 🍀それは顔や手などのように明らかな伝達部位ではない部分が、本人にもよくわからないまま伝える📶極・微弱なメッセージのことをキャッチする感度のようなものだと思う。人の気配がする、などと確かめてみると、だいたい当たっているように、その気配はたとえ微弱であっても人間同士の感度には察知できる高さなのだといえる😝

 👂テレパシーといえば大袈裟にも聞こえる。けど、もっと身近で消え入りそうで、日常的なもののことだ。ネットやSNSなど可視的コミュニケーションが飛び交う今日よりずっと太古に、我々は潜在的にお互いを感じ合っていたのは明らかである👍

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